2016年10月17日月曜日

弓道 KYUDO - THE WAY OF THE BOW:

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●弓道 KYUDO - THE WAY OF THE BOW
2016/10/11 に公開 視聴回数 747 回





【弓道】教士七段 リアム・オブライエン先生 Kyudo Spirit
2016/03/04 に公開
Samurai Spirit 弓道 国際弓道連盟で唯一の七段 教士七段 リアム・オブライエン先生




●Kyudo World Cup 2014 (世界弓道大会2014年パリ)
2014/08/13 に公開




●Kyudo (Japanese archery) ritual 小笠原流 百々手式 弓道
2011/08/31 にアップロード




●Toshiya - Pretty Japanese Girls in Kimono doing Kyudo (Archery) in Kyoto 通し矢
2012/01/26 にアップロード




●Japanese Archery at KCC
2013/04/09 に公開

なぜ日本人はキリスト教を体内に取り込まないのか:子どもの遊びにしてしまう「日本文化」の見えない力

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現代ビジネス 2016/10/16 堀井 憲一郎コラムニスト
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49956

日本史キリスト教
キリスト教を絶対に体内に取り込まない「日本文化」の見えない力
大正時代のクリスマスからわかること

日露戦争の勝利を転機に、クリスマスを「西洋気分を味わいながらはしゃぐ日」に変えた日本人。
そして大正年間に入り、日本の風俗の中にクリスマスは完全に定着していく。
同時に、キリスト教の宗教的な側面は断固として拒否しつづける日本文化の目に見えない力が浮かび上がってくる。

注:日本人とクリスマスの不思議な関係をずんずん調べる連載第13回。
(第1回はこちらから http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47056)

■「欧州大戦」の影響

 大正年間は1912年の7月31日から、1926年の12月25日までの14年5ヵ月間である。
 この15年足らずの期間に起きた出来事のうち、とても大きな出来事はこの二つであろう。

1914年からの欧州大戦。
1923年の関東大震災。

 25年のちに再び欧州で大戦が起こるので、1914年のほうは「第一次大戦」といまでは呼ばれる が、当時そんな呼び方をする人はいない。
 なので本稿でも1914年から18年までの戦争を〝欧州大戦〟と記すことにする。
 日本はこの欧州大戦に参戦している。
 ドイツと戦い、東洋から太平洋にかけてのドイツ権益を奪取する。
 日露戦争に続き、この世界大戦でも勝利して、日本はますます変わっていく。
 また、欧州大戦の影響でロシアに赤色革命が起こり、その革命干渉戦として(共産主義政権を倒す目的で)〝シベリア出兵〟が日米軍を中心におこなわれ、そこから米価が高騰し、ために1918年には米騒動が起こった。
 大正年間の大きな出来事をもうひとつ加えるのならこの「米騒動」になるだろう。
 ただこれも大きな視野から見れば〝欧州大戦の影響のひとつ〟と見ることができる。

 二十数年後の第二次大戦の印象が強く、日本におけるこの欧州大戦の影響が語られることがないのだが、日本のいろんな運命は、この大戦によって変わってきている。
日本のクリスマスにも、その影響は出ている。

■クリスマス記事のパターン

 大戦前年の大正2年、1913年12月10日のクリスマス記事には「この二、三年クリスマスの急に盛んになり、もう花やかなクリスマス装飾がそこここの町の中を春のよう彩っている」という相変わらずの記事が載っている。
 ここ最近クリスマスが盛んになった、と、新聞はずっと書き続ける。
 たしかに定着はしてきたようだ。
 大正期のクリスマス記事はある定型ができていく。
 まず12月の初頭、だいたい3日から遅くとも10日くらいまで「街ではもうクリスマス装飾が始まった」という写真入りの記事が入る。
 ほぼ毎回、銀座の風景である。
 そのあと「クリスマスの贈物には何がいいか」という記事が出る。
 クリスマス用の舶来の玩具や、クリスマスカードなどの商品紹介がある。
 だいたい明治屋、亀屋などの商品である。
 そして12月23日から24日ごろに、都内各教会でのクリスマス会の予定日時が紹介される。
 12月25日26日は、その紹介した教会での様子がレポートされる。
 これがパターンである。

 「装飾始まる」
 「贈物紹介」
 「祝会予定」
 「祝会報告」。
 この4パターンが繰り返される。

 もちろんこれ以外のいくつかのクリスマス記事が載る年もある。
 クリスマスは明らかに「12月らしい日本の風景」として定着していった。
 どこまでも日本の風景である。

■どんどん日本仕様に

 12月初めの記事は、たとえばこういう記事が載る。

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「なかにも凝ったのは銀座の亀屋で『勅題・社頭の杉』にちなんだ店内一面の装飾は、芝居の舞台面を見るような大仕掛けになっている。
日光陽明門を背景に、二抱えもある大杉を立て、商品はよしず張りの掛け茶屋の中に飾られてある」

「大鳥居、春日灯籠、絵馬や奉納額が、数十本の桜と杉のあいだに並んでいる。
二階の朱塗りの大門の内では、エプロンをかけた美しい三人の給仕女が、誰彼の別なくココアを御馳走する」
<<<<<

 こういう風景である。
 とても楽しそうだけれど、クリスマス飾りが「日光東照宮」を見立てた飾りの中に置かれているのである。
 そのときの明治屋も同じく社頭の杉の趣向で、階段を石段に見立て、杉の大木が数本、花ざかりの紅白の梅の木が十数本置かれ、そのあいまに無数の豆電灯が点滅している。
 どちらも大正2年末の風景である。
 新年の「歌合わせ」のお題が「社頭の杉」と発表されたので、そういう趣向になったらしい。
 天皇家と神社と杉の木と、それとクリスマスが違和感なく(少しはあるが、まあ気にするほどではない)ここに同居している。

 日本人は、自分たちに馴染めるようにクリスマスをどんどん変えて取り込んでいった。

■完全に子供向けだった

 この時期のクリスマスは、完全に「子供向けのもの」として設定されている。
 それは明治のころからそうだったし、昭和の終わりまでそうであった。
 クリスマス贈物として紹介されているのは子供向け玩具だし、25日(前後の)クリスマス会も、ほぼすべて「子供向けの会」として報告されている。

>>>>>
「番町教会、午後一時過ぎ、太陽が斜めに堂内に流れこんで子供らの林檎のような顔はひときわ映えて美しい。
唱歌も対話も表情も可愛らしい出来。
日本メソヂスト教会でも、少年少女はよそ行きの着物を着飾って続々参集、今日は上草履が新しくなったと、なにからなにまで嬉しがる(……)十一時に散会した、子供たちは「もう一度クリスマスが来て欲しいなあ」と言っていた」(1913年大正2年)

「師走の街を尖り顔をして急ぐ人々をあとに教会のクリスマスに入ると、飾り立てた贈物いっぱいのツリーと自分の晴れ着を見比べて、茶目君はしきりにはしゃいでいる、べそ子は皹(ひび)の切れた頬を林檎のように紅くして、にこにこする、どこの教会も同じように嬉しそうな気分がみなぎっていた」(1915年大正4年)

 「嬉しい歩みを教会堂へ運ぶいたいけな幼児が、昨日は昼から夜にかけて、各所の基督教の会堂を賑わした。
 クリスマス、どんなにか一年のあいだを彼らは待ち侘びたのであろう、教会はまばゆいほどいつものように飾っている」(1918年大正7年)
<<<<<

 あくまで「可愛い子供たちのお楽しみ会」というのが教会でのクリスマス会の様子であり、大人たちは微笑ましくそれを見守る、という形になっている。
 大人がその輪に入るときは、童心に帰って、つまり子供と化して入るばかりである。
 どこまでも、クリスマスは子供のための祝祭であった。

 これも、「キリスト教祝祭の外側だけ受け入れて、その中身は受け入れない」日本方式のひとつであろう。
 (もともと欧米においてもクリスマスは子供向けの側面があるが、日本ではよりそこを強調しているようにおもう)。
 教会での〝本格的なクリスマス〟は本来、信者のための空間である。
 ただ、子供だったら非信者でもいいだろう、という判断のようだ。
 ものごとの判断がつかない子供だから、かまわない。
 非キリスト教日本人からすれば、べつだんこれで子供がキリスト教徒になるわけではないから楽しいならいいだろう、ということである。

 キリスト教会側としては、子供のころから通わせるとひょっとしてキリスト教徒が増えるのではないかという目論見があるのだろう。
 数字から見るなら、日本人側の判断のほうが合っている。
 子供のころにキリスト教教会に通ってもべつだんキリスト教信者になるわけではない。
 それは〝ミッション系の中高一貫校〟に6年間通い、キリストの言葉に日々触れていようと、キリスト教に転向する者がほとんど存在しないのと同じである。

 子供は自分ひとりの考えで転向はできない。
 親に相談しないと、と考える。
 親がキリスト教徒でなければ、ふつう反対される。
 それが日本システムである。
 16世紀以来培ってきている「反キリスト体制」なのである。

 クリスマスを教会で過ごして、饅頭と玩具をもらったくらいでは転向しない。
 ただ、キリスト教に対して漠然とした好意を持たせる、ということには成功はしているとおもう。
 みんな表面的な気分ではキリスト教のことを悪くおもっていない。
 でもそれだけのことである。

■日本の文化の底流の力

 クリスマスは「子供の日」として、宗教的ではない行事として、日本に定着していく。
 どこまでも、ひとつの風俗でしかない、ということである。
 リスマスは、その周辺では騒ぐのだけれど、さほど重くとらえられた風俗ではないのだ。
 たとえば、日本のクリスマスに関する学術的な研究、はほとんど存在しない。

 お祭りというのは、明治以降、学術研究の対象となっていったが、クリスマスはそういう扱いを受けていない。
 明治以来受けておらず、いまだにそうである。

 日本のクリスマスのあらゆる文献を片っ端しから見て行ったから、そのへんの状況はすごくわかる。
 何というか、言い方は悪いが「誰もまともに相手をしていない事象」なのである。
 日本のクリスマスに関して、いつ始まったか、どれぐらい長くやっているか、どのように行われてきたのか、ほとんど誰も興味を持っていない。
 つまり「明治時代からクリスマスのバカ騒ぎは始まっていた」と言うと、ほとんどの日本人が一瞬だけ驚く、ということを指している。
 驚くだけである。覚えない。
 何年か経ってその話をすると、みなまた、一瞬だけ驚く。
 忘れる。その繰り返しである。
 どう考えてもこれは、何となく興味を持っていない、というレベルのものではない。
 必死で興味を持たないようにしている、としか考えられない。
 絶対に興味を持たないように、みんなすごくがんばっているのだろう。
 すごくがんばっているのだから、とりあえず見守るしかない。
 それが、目に見えない日本の文化の底流の力である。

 簡単に言ってしまえば、
 キリスト教はいつまでも舶来のものであり、外に存在するものであり、
 百年以上続いていようが、それは伝統的な存在としてはとらえない、ということである。
 明確な言葉にされていない。
 気分は共有している。
 とても強い文化的な力である。

 その潜在する文化的な力によって、クリスマスの「救世主が地球上に顕れた日」という部分をまったく無視して〝無垢な子供の日〟として、のちに〝恋人たちの浮ついた日〟としてあつかわれていくことになる。






●聖セイント☆おにいさん アニメ映画
予備:https://www.youtube.com/watch?v=RNjJ3Bfg49U




●海外の反応 アニメ 日本「聖☆おにいさん」ブッダとイエスのギャグ作品



●【外国人泣ける話】敬虔なイスラム教徒と聖☆おにいさんの映画を見に行くことに…orz【日本大好き外国人】




2016年10月16日日曜日

納豆が地球を救う! :納豆のネバネバが砂漠を緑化する! 世界が驚愕した日本の最強技術!

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https://www.youtube.com/watch?v=E98_GM_krmg
●海外の反応 日本 外国人「嘘だろ・・・納豆で地球を救えるのかよ!」 納豆が砂漠緑化に!世界が驚愕した日本の最強技術!
2016/10/03 に公開 視聴回数 30,103 回



 こんな開発も。



●【感動】日本が発明した魔法の砂が世界を救う!外国人驚愕『まじか!ニッポン!』食糧問題を解決!?衝撃の日本の技術が明かされる【海外が感動する日本の力】
2016/10/24 に公開



2016年10月6日木曜日

神谷明日香:私が小学生なのに特許をとったワケ、「成功はあきらめた頃にやって来る」

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TED 10月4日(火)15時43分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20161004-00000000-ted

神谷明日香:私が小学生なのに特許をとったワケ



【翻訳】

 皆さん、この2つの缶どちらがアルミ缶でどちらがスチール缶か分かりますか?
 缶の裏側を見ると素材を確認できます。しかし、手に取ったりマークを見たりしないと分かりません。

 私はこの空き缶を自動で分別する空き缶分別箱を小学校5年生の夏休みの自由研究で発明し、2015年8月日本では数少ない特許を持つ小学生になりました。
 小学校5年生の夏休み自由研究の宿題を何にしようかな?と考えていたときにおじいちゃんのことを思い出しました。

 スーパーを経営しているおじいちゃんはいつもゴミ箱からアルミ缶やスチール缶などを分別していて大変だなと思っていました。
 なんとか簡単にできる方法はないかな?と思い自由研究で缶を分別するものを作ってみようと決めました。

 アルミ缶とスチール缶を分けるのにはどうしよう?と考えていたときに小学校3年生の理科の実験を思い出しました。
 それは鉄やアルミの板を斜めにして磁石をすべらせる実験でした。

 鉄の板は磁石がぴったりくっつくのにアルミの板はピューンと磁石がすべり台みたいにすべるのが面白かったな。
 分別するのにはこれが使えるとひらめきました。

 では、磁石を使ってどうすれば分別できるのか?
  色々な仕組みを考えました。
 2つやってみたけれど上手く行きませんでした。
 もやもやしながら「ああ、もう疲れちゃったな」と磁石を付けた定規でこのようにして遊んでいました。

 磁石を付けた定規にくっついた缶がシュッと外れたのを見てパパが「今の動き 面白いね」と言いました。
 それを聞いて「これだ!」と思いゴミ箱の仕組みをひらめきました。

 そしてその仕組みを使ってできたのがこのゴミ箱です。
 空き缶をここに入れて行きます。
 するとアルミ缶は このように真下に落ちます。
 スチール缶はこのように右側に落ちます。

もう一度見たいですか?
 (拍手)ではやってみます。
 アルミ缶です。
 次にスチール缶です(拍手)ア
 ルミ缶です。
 スチール缶です(拍手)
 皆さん「どうしてスチール缶が曲がりながら落ちて行くの?」と不思議に思いましたか?
 ここが一番実験を重ねそして楽しかったところです。

 まずひらめいた仕組みを実験しました。スチール缶です。次にアルミ缶です。アルミ缶です。スチール缶です。 このように筒に入れたアルミ缶は真下に落ちますが、スチール缶は右側に落ちました。

仕組みが成功したのでこのようなゴミ箱を作りました。
 これで完成のはずでしたが失敗してしまいました。
 実験よりも投入口が磁石から遠かったのでスチール缶も真下に落ちてしまったのです。

そこで投入口にペラペラした板を付けました。
 思い通り磁石の方に行ったのですが、今度はスチール缶が磁石にくっついて止まってしまいました。
 そこで磁石の下にペラペラした板を付けました。

 投入口に付けたペラペラした板の切れ端です。
 そして成功しましたスチール缶は右側に落ちるようになりました。
 さらに精度を上げるため最後に付けたペラペラした板の長さを実験しました。

 1cmから5cmまで試してみたところ3cmが一番ちょうど良いことが分かりました。
 以前、特許を取ったことのあるパパがゴミ箱を見て動きが面白くてシンプルなのが良いと思い「明日香もどう?」と勧めてくれて特許を申請することになりました。

 正直その時私は 特許の意味もよく分かっていませんでした。
 夏休み中に自由研究を終わらせないと、と焦った時もありましたが思いついたアイディアは全部やりました。

 特許が取れたポイントとなったペラペラした板もそうです。
 できなくてもやってみる。
 これが上手く行かなくても分かることがある。
 とにかくやってみる!
 やりゃあなんとかなる!
 そうしてこのゴミ箱は夏休みが終わる5日前に完成しました。

 このゴミ箱は思いついてからすぐにできた訳ではありません。
 私の思いとひらめきを家族が協力して一緒に形にしてくれたので、できました。
 思いついたらママに言ってひらめきを頭の中ではっきりさせました。

 次にパパと一緒に試作を作ったり、失敗した時にアイディアを出し合ったりして形にして行きました。
 私はいつも協力してくれる家族が大好きです。
 こうして私は特許を持つ小さな発明者になりました。

 きっかけは大好きな家族や友達の中にあります。
 ひらめきは遊びの中にあります。
 成功はあきらめた頃にやって来ます
 そして皆さんひらめいたら失敗を恐れずとにかくやってみる。
 これが一番大切なことだと思います(拍手)

 愛知県に住む小学校5年生の神谷明日香は、スーパーを経営している自分の祖父が何時間もかけてアルミ缶とスチール缶を分別する姿を見てから、缶自動分別ゴミ箱を作ろうと決心。
 まだ可愛らしさの残るトークの中で、実験と失敗がつきものだった自分の設計プロセスを振り返り、年齢を問わず起業家の卵に役立つヒントを紹介します。

動画撮影日:2015年11月8日(日)

2016年10月4日火曜日

「ブタもおだてりゃプールを泳ぐ」:なかなかスマートな「ぶたカキ」、ブタの飼育法

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 運動させずに、ビールなどをたらふく飲ませて病的な肥満肉質を作り霜降り肉という和牛を作る方法がある。
 一方で豚では逆に運動を強要して筋肉質ブタを作るということのようである。
 どちらがいいかとといえば、どうしてもブタのほうが健康だと思うのだが。


TBS系(JNN) 10月4日(火)15時36分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20161004-00000072-jnn-int

中国の農場、トライアスロン選手のように動く豚が人気に



 中国の農場で、豚が豚らしからぬ動きをするとして人気を集めています。

 勢いよく走り、そのまま水の中に飛び込む豚。
 思い切りのよい飛び込みの後は、上手に水泳をします。
 中国・上海の農場では、豚がトライアスロンの選手のように陸上と水中をハードに動き回り、その豚らしからぬ姿が見物客の人気を集めています。

 「豚って普通はなまけ者だと思っていたけど、ここの豚たちはとてもエネルギッシュだね。
 とても健康的に見える、聞いたこともないし珍しいよ」(見物客)

 自主的にこの運動を行っているという豚たちですが、ゴールにはちゃんとご褒美のキャベツが用意されているということです。



Record china配信日時:2016年11月17日(木) 21時0分
http://www.recordchina.co.jp/a155359-2.html

中国の養豚農家、ブタに高飛び込み強要
「肉質向上し、3倍高値で売れる―湖南省




 2016年11月17日、中国湖南省寧郷県関山村の養豚農家が実践している大胆な飼育法が話題だ。ブタを池に飛び込ませることで肉質が向上し、通常の3倍以上の値段で出荷できるという。
 南方網が伝えた。

 養豚農家の黄(ホアン)さんは
 「ブタは泳がせることで免疫力が上がり、食欲や成長速度が増す。こうして育てた豚肉は質と口当たりが良くなる」
と話す。

この飼育法は「猪八戒の飛び込み」と呼ばれ、村の観光名所になっている。


『ゆけ、シンフロ部』:大分県 「温泉でシンクロをするPR動画」を2年連続で公開

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ロケットニュース24 2016/10/03
http://rocketnews24.com/2016/10/03/807731/

【シンフロ】大分県が「温泉でシンクロをするPR動画」を2年連続で公開
/ ラストに登場する世界初の試みとは?


shinhuro

 源泉数・湧出量ともに日本一を誇る温泉大国・大分県が、2015年に公開したプロモーション動画『シンフロ』。
 県内の温泉でシンクロを披露するクオリティの高い映像が話題となり、ニュースやワイドショーなどでも紹介された。

 あれから約1年……シンフロの続編が公開されたのでお知らせしたい。
 その名は「ゆけ、シンフロ部」である! なんでも、ラストには世界初のとんでもない仕掛けが用意されているという。一体どんな映像なのか、さっそくご覧いただこう。

・大ヒット動画
 シンフロは、大分県が温泉の魅力を伝えるために本気で制作したPR動画。
 昨年YouTube上に公開した第一弾は、2016年9月で約130万回も再生されるなど話題となり、様々なシンフログッズやお菓子が販売されたという。

・映画並みのクオリティ
 その続編「ゆけ、シンフロ部」は、県内にある高校のシンフロ部を舞台にしたフィクションドラマだ。
 主人公の女子高生2人の演技やカメラワークは、今回も映画さながらのクオリティで思わず見入ってしまう。
 BGMとして流れる、『なごり雪』の新バージョンもストーリーを盛り上げてくれるぞ。

・温泉の魅力満載
 内容はもちろんだが、映像では自然豊かな露天風呂などが登場し、気持ち良さそうな温泉の魅力も満載だ。
 高画質で、さらに「ちゃぽーん」なんて音を聞いていると、マジで温泉に行きたくなる。
 肌寒いこれからの時期にピッタリな動画と言えるだろう。

 果たしてラストに仕掛けられた世界初の試みとは何なのか? 
 気になる人はぜひ動画をご覧いただきたい。

参照元:「シンフロ」公式サイト、YouTube
執筆:りょう

▼温泉を舞台にした必見の青春ドラマだ。なお、関西や福岡、大分ではテレビCMもオンエアされているぞ


▼こちらはメイキング動画。


▼CM版

2016年9月30日金曜日

『君の名は。』」が1分たりとも退屈させない秘密(2):ニュースが止まらない

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BBC News  2016年9月30日
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-37503259

アニメ映画『君の名は。』が記録的ヒットに 
人気の背景を探る


『君の名は。』は85カ国・地域で公開される予定

 日本のアニメ映画『君の名は。』が公開1カ月で興行収入100億円を超え、人気作を数多く出してきたスタジオジブリの作品以外としては記録的なヒットになっている。
 なぜ成功を収めたのか。
 人気の背景を探った。

■1):体が入れ替わるという幻想的な設定

 この映画は、10代の男女の体が入れ替わるという話を中心に展開する。
 小説を原作とし、日本の田舎町に住む女子高校生、三葉(みつは)と東京の男子高校生、瀧(たき)の出会いを描く。
 三葉は自分が若い男の体になってしまったのを夢の中のことだと思い、一方の瀧は田舎の女子生徒として周囲の世界を見る。
 映画は体の入れ替わりと、タイムトラベルや破壊と死をもたらす彗星をめぐる2人の経験を描写している。

■2)日本の昔話の男女取り換えがインスピレーションに

 映画を監督した新海誠氏は、12世紀(平安時代)の昔話「とりかへばや物語」からインスピレーションを得たとされる。
 とりかへばや物語では、対照的な性格の双子の男女が、男の子が女の子として、女の子が男の子としてそれぞれ育てられる。

 現代日本の映画やテレビドラマでも、同様のテーマを扱った作品が存在する。
 1982年公開の『転校生』は、神社の階段を転げ落ちた10代の男女の体が入れ替わるし、2007年のテレビドラマ「パパとムスメの7日間」では、父と娘の体が入れ替わる。

■3)夢見がちな思春期のメランコリー

 映画は、大人への成長や思春期、複雑な世界の中で自らのアイデンティティーを確立する苦悩、といった普遍的なテーマを扱っている。


夢と現実の境界線も新海監督の想像力を刺激した

 三葉と瀧は、お互いの体が入れ替わった状態で夢から目覚め、現実と夢の境界線が度々あやふやになる。
 監督の新海氏は、この部分は古今和歌集の有名な小野小町の和歌から影響を受けていると語っている。

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを

 「彼のことを考えながら眠りに落ちたから彼の夢を見たのだろうか。
 夢と知っていれば目覚めなかったのに」
という意味だ。
 新海監督は、夢から目覚めたばかりのぼんやりした物悲しい瞬間の感覚を映画の中で表現しようとしているようだ。

■4)日本を変えた東日本大震災の記憶

 映画には、2011年3月11日に日本を襲った過去最大の地震、東日本大震災の経験も反映されている。
 震災では約1万6000人の命が奪われた。
 3・11(サンテンイチイチ)と広く呼ばれるこの震災について、新海監督は週刊ダイヤモンドとのインタビューで、彼自身だけでなく日本社会を変える経験だったと話している。


東日本大震災では約1万6000人が命を失った

 映画でも自然災害の脅威が描かれている。
 新海監督は、「あすは我が身かもしれない」という、自らも含め多くの人が感じていることが映画の根底にあると語った。
 映画の中で登場人物の瀧が、東京で同じようなことがいつ起きてもおかしくない、と語る場面がある。
 ブロガーの吉永龍樹さんは映画について、
 「震災のショックを受け止めてあの規模の作品に消化するのに、およそ5年かかるということなのかもな」
とツイッターに投稿した。

■5)「聖地巡礼」

 『君の名は。』の映像の美しさも話題になっている。
 実在する場所をモデルにした場面も多い。
 あるツイッターユーザーは、ストーリーや演出、音楽なども良かったが、映像の美しさに一番感動した、とコメントした。

 ほかのツイッターユーザーたちは、モデルになった場所の写真を投稿している。
 ファンたちは長野県内の新海監督の地元や岐阜県、さらには都内にある「ロケーション」も訪れている。



映画の1シーン

 映画は海外の関心も集めている。
 カナダのアニメファン、イスマエル・ラモスさんはBBCの取材に対し、
 「映画の細かい描写一つひとつが非常によく考え抜かれていて、それぞれがとても精密かつ情熱的に作られている」
と語った。
 「美術と音楽、物語が完璧なバランスになっている」。

■6)日本のアニメ界の主流となる新世代か

 映画がこれほどまで成功したのには、若い世代やアニメファンを超えた、幅広い層の支持を得たことがある。
 そのため、新海監督は次の宮崎駿だと称賛する声も一部に出ている。
 「宮崎駿」はアニメの代名詞としてほぼ通用するほどで、日本のアニメ作品のファン層を海外にも広げた立役者として知られる。


日本では8月26日に公開された

 宮崎監督がスタジオジブリで制作した作品には、アカデミー賞を受賞した人気作「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」、「ハウルの動く城」が含まれ、これらの作品は全て、興行収入が100億円を超えている。
 あるツイッターユーザーは、「新海監督は『君の名は。』で、宮崎監督に近づいた」とコメントした。


『千と千尋の神隠し』は2003年にアカデミー長編アニメ映画賞を受賞している

 少し違う意見を持つ人もいる。
 前出のラモスさんは、「宮崎監督と新海監督のスタイルにははっきりした違いがある。両方とも非常に力強いスタイルだが」と語った。
 「2人に共通するのは、観客に旅をさせ、経験をさせる能力だ。
 アーティストであれば誰もが究極的に目指すところだろう」
 「模倣は最大の賛辞」という言葉が正しいと考える読者には、
 『君の名は。』の予告編を短編ホラーに作り替えたファンもすでにいる
ことをお伝えしておこう。

岡ゆづは/イベット・タン

(英語記事 Why the story of body-swapping teenagers has gripped Japan)
提供元:http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-37503259



人民網日本語版配信日時:2016年10月1日(土) 2時10分
http://www.recordchina.co.jp/a151808.html

大ヒット映画「君の名は。」の中国上陸決定!
年内公開へ―中国メディア



 日本で数々の興行収入記録を塗り替えている長編アニメーション映画「君の名は。」の中国公開へ向けて、新たな進展が見られた。
 29日、日本の配給会社・東宝が、中国の提携先である光線影業とその傘下の彩条屋影業と共同で、同作品の中国公開へ向けて手続きを進めていることを発表した。
 中国のファンは、年内にも映画館でこの傑作アニメを見ることができる見込みだ。

 新海誠監督の力作となった「君の名は。」について、日本メディアは「新海誠監督の最高傑作」と評価し、興行収入は早い時期に100億円を突破した。
 日本のアニメーションでは宮崎駿氏に続き、興行収入100億円突破を達成した2人目のアニメ映画監督となった。
 日本での興行収入は現在、111億円に達しており、アニメーション映画の興行収入歴代6位に付けている。
 日本で同作品を見た人や業界関係者の評価は非常に高く、日本のネットユーザーからは「とても不思議な魔力がある」との声も上がっている。
 中国でも既に大きな話題となっており、中国公開を期待する声は日に日に高まっている。

 これまでにも中国公開のニュースはあったものの、噂の域を出ないものだった。
 しかし、映画評論サイトの時光網が微博(ウェイボー)公式アカウントで29日、「光線影業が中国公開を認めた」とし、今後外国映画の審査を経て、年内にも公開される見込みであることを明らかにした。

(提供/人民網日本語版・編集KN)



現代ビジネス 2016.10.01 貞包 英之山形大学准教授
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49807

『君の名は。』が、感動のウラで消し去ってしまったもの
無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問

■大ヒットの理由――交差する東京と地方

 新海誠の映画『君の名は。』が、興行収入110億円を超える大ヒットを続けている。
 東京に住む高校生の男の子と、地方に住む同じく高校生の女の子が寝ている間に入れ替わる「スコシ・フシギ」なかたちで出会い、互いの身体で世界を経験していくうちに、次第に運命の人として受け入れていく。

 ヒットした要因のひとつには、そうした東京と地方の異なる若者の生活を、メリハリよく交差させ描いていたことがあるだろう。
 戦後ヒットした『君の名は』は、佐渡、東京、北海道を股にかけた一種のご当地映画としてあったが、今回の『君の名は。』も、都市と地方の生活をよく描く。
 主人公の一人の男子高校生は新宿・代々木・千駄ヶ谷を中心とする東京で学校とバイトを中心とした都会生活を送り、もう一方の女子高生は岐阜県飛騨のどこかをモデルとした「糸守」という村で実家の神社を守りながら暮らしているのである。

 ただし気になったのは、2つの場での生活の描き方にリアリティの差が感じられたことである。
 東京の街が、(いつもの新海誠の作品でのように)総武線沿線を中心に精緻に実在感をもって描かれていたのに対し、「糸守」は必ずしもそうはいえない。
 もちろん「糸守」の風景も綿密に取材され、部分部分は実在のモデルをもつのだろう。
 だが、それらが都合よく「編集」されることで、少なくとも、「地方都市」に暮らしたことのある者にとって「糸守」が、実在感の薄い街になっていることである。
 「地方都市」に暮らす人々は、イオンに赴き、ユニクロの服を着て、TSUTAYAに通う。

 より山中のいわゆる中山間地域なら、そうした場所はあるかもしれない。
 しかし過疎化が進む村には、あれほどの子どもや若者はおらず、物語を支えるような青春群像はそもそも成立しにくい。

■地方を救うという「語り」

 つまり「糸守」は、郊外や高齢化の風景を周到に排除した、いうなれば理想郷としてある。
 虚構であることがたんに問題なわけではない。
 自然やスピリチュアルなものなど、東京にないものを寄せ集め出来たいわば都合の良い反転像として、それはあるのではないか。
 そうして都会のまなざしによってつくられた負の鏡像としてあるから、「糸守」は容赦なく破壊されるようにもみえる。
  ネタバレになるが、物語のなかで、彗星が落ち、「糸守」は壊滅する。
 歪んでいるかもしれないが、筆者は『君の名は。』をみながら、「並行世界」のなかで東京に同様に彗星が落ち壊滅することを期待していた。

 新海誠の作品のなかでくりかえし描かれてきた、あの滴るような東京の風景が一瞬で四散する「シン・ゴジラ」的スペクタクルの快楽。
 何度も繰り返される誰の視線か分からない上空からの俯瞰のショットも、不穏な空気を醸しだしていた。
 だが結局、東京には彗星は飛来しない。その代わり、ある意味、東京の身代わりとして「糸守」が破壊されたのである。
 それだけではない。紆余曲折を経ながら、実は「糸守」に住む人びとは救われるが、だからこそいっそう都会ではなく地方だけが壊滅し、東京が無償のままそれを「救う」という構図が目立つ。

 3.11や熊本大震災、または「地方創生」のブームのなかで、地方は大都市によって救われるべき場所として、「食傷」気味になるほど語られてきた。
 問題は、そこで「救われる」のが、あくまで都会のまなざしによって「編集」された架空の「地方」だということである。
 多くの人がなお生きるショッピングモールやユニクロやTSUTAYAからなる地方の現実は無視される。

 『君の名は。』は、たしかに感動的な物語である。
 しかしその感動が、2010年代にメディアや政治的ドラマのなかでくりかえされてきた大都市が地方を救うという「語り」のレールを走っていることを忘れてはならない。
 その「語り」は、地方を「救う」べき対象として都合良く立ち上げるとともに、カネや情報の大量投下を招くことで、地方を東京に従属させる現実の構図をますます強めてきた。
 『君の名は。』に対する感動は、大都市優位のそうした構図を疑わない、一種の傲慢な思い上がりとおそらく結びついているのである。

■「誰か」を探す歴史

 ただし上から目線だけで、「救い」は実行されるわけではない。
 地方が「救われる」のは、自分を承認する何かに出会う機会として、むしろ切実に望まれているからではないか。
 この意味で、「地方創生」ブームや「絆」ブームには、誰かを「救う」ことで自分の存在意義を確認しようとする、東京を中心とした大都市の人々の不安をみるべきなのかもしれない。
 それを確認する上で、少し衒学的になるが、『君の名は。』のサブ・カルチャー的位置を簡単にみておこう。

 藤本由香里はその著書『私の居場所はどこにあるの?』のなかで、戦後の少女漫画は、「居場所」をみつけることを主要なテーマとしてきたという。
 居場所とは、自分がいても良いことを承認してくれる「誰か」がいる場所のことを意味しよう。
 「誰か」は、家族から友人、そして異性へと変わっていくが、その「誰か」に受け入れられる物語を読むことで、少女たち(と少女漫画を読む他の人びと)はうまくいかない家族生活や学校生活をやり過ごしてきたのである。

 それをひとつには前提としながら、90年代後半には、今度は主に男性向けのマンガやアニメで、出会いと承認をモチーフにした作品が流行り始める。
 後にセカイ系と呼ばれていく『エヴァンゲリオン』(1995-)や『イリヤの空、UFOの夏』(2001-2003)を代表に、主人公たちが特別の異性に受け入れられることが大切なテーマとなっていく。
 ただし異なるのは、セカイ系では出会いそれ自身は、充分に意味あるものとされていないことである。
 男女の出会いは、なぜかセカイの破局を救う特別の意味を担うとされることで、あくまで重要なものとみなされる。

 そうして男女の出会いが個人だけではなくセカイの運命を左右する、「公私」が重ね合わされた「神話」的な物語を、90年代後半以降、マンガやアニメはくりかえし語ってきた。
 新海誠はそのセカイ系のブームなかで育ち、生き残った作家といえる。
 出世作『ほしのこえ』(2002)は、地球を救うために戦う少女と、その少女との感情的つながりを時空を超えて信じる少年の姿を描くことで、今思えば、セカイ系をわずか25分のなかに煮詰めた作品としてあった。

 また後の『雲のむこう、約束の場所』(2004)や『秒速5センチメートル』(2007)でも、出会いをセカイの命運と同じくらいの重さで信じる男女が登場する。
 求められるのは、男女の互いの承認だが、離れ離れの「時間」や「空間」がそれを妨げ、個人やセカイの運命を左右する。
 そうした障害を乗り越えようとする(がなかなかうまくいかない)「遠距離恋愛」を描くことに、新海誠は執着してきたのである。

■地方への憧憬

 『君の名は。』は、こうしたセカイ系の流れを押し進めた作品とまずはいえる。
 ここで「遠距離恋愛」の障害になるのは、田舎に住む女が三年前の時空を生きていたという時間的パラドックスと、より単純には東京と「糸守」の空間的距離である。
 これまでも新海誠は東京と地方の隔たりを、主人公たちを分ける大きな障害としてしばしば描いてきた。
 主人公たちは青森と東京(『雲のむこう、約束の場所』)、栃木と東京と鹿児島(『秒速5センチメートル』)、東京と四国(『言の葉の森』)に引き裂かれ、少なくとも一度は関係を断つ。
 しかし東京と地方の距離は、思いを純粋なものへと高める装置にもなる。離れているからこそ、互いの心が試されるのであり、実際、新海誠の作品が描く特徴的な「空」の風景が象徴するように、主人公たちは東京と地方と離れているからこそ、どこかで通じ合っているという(しばしば一人よがりの)思いを募らせる。

 『君の名は。』でも、その点は同じである。
 東京や地方という離れた場所に、自分と心が通じ合う者がいると信じようとするのは、意地の悪い見方をすれば、現実にはそうした人がいないと諦めているからともいえよう。
 身近に住む人々はすぐに期待を裏切る。
 だからこそすぐには逢えない、自分の住む街の「外部」に、運命の人が憧憬されるのである。

■東京の膨張と「居場所」の内部化

 新海誠の作品では、こうしてしばしば自分の街に「居場所」を見出せない人がそれを遠くの街に求める。

 ただし『君の名は。』は、それだけでは終わらない。

 大きな違いは、ここでの遠距離恋愛がハッピーエンドで終わることである。
 これまでの作品では、運命の人であり続けるために、現実の出会いはしばしば不発に終わった。
 それに対して『君の名は。』では、物語のラストで、記憶を失っているにもかかわらず、二人は行き違う総武線の窓から互いをみつけ、最後には出会うのである。
 こうしたありえないほどの偶然が、それなりに納得がいくものに仕上がっているのは、ひとつには、二人の出会いが「大量死」を背景にしているからといえよう。
 やり直せないはずの時間を巻き戻し、別れた人にもう一度会うこと。
 それはとくに2011年の震災以降、この社会の多くの人びとが痛切に抱いてきた思いといえる。
 そうした私たちの願いを追い風に、大破局を生き延び、二人は出会う。

 しかしそれ以上にここで注目されるのは、この出会いが実現されるのが、あくまで東京の内部ということである。
 物語のラストで「誰かを探している」という思いを二人は抱えつつも、「誰か」を東京以外に探しに行こうとする素振りはみせない。
 地方出身の女は帰る場所を失い東京でOL生活を送っているようであり、東京に暮らす男も他の場所に出ることなくそのまま就職している。
 しかし結果としてみればそれは成功し、二人は総武線という極めてローカルな世界で最後に出会う。
 都市の外部に「誰か」を探すというロマン的幻想から覚めたものと評価できるかもしれないが、逆にいえば自分の身近で運命の人に出会えるというより深い夢を眠っているものともいえる。

 自分のすべてを肯定してくれる他者が、すぐ近くにいるという幻想。
 それは他者を入れ替わりによって身体的に経験したことから来ているのかもしれないが、だからこそそれは距離や時間の隔たりのなかで他者を必死に求める、新海誠自身が追求してきた屈折と鬱屈のセカイ系の物語が「死んだ」ひとつの瞬間でもある。
 その上で重要になるのは、こうした「死」が東京という巨大都市の肯定によって支えられていることである。

 現在、東京は外部を失ったまま膨張している。
 モノや仕事や情報を巨大に集め続けるなかで、主人公の女もいつのまにか引き寄せられているように、東京は内部に「地方」さえ孕む。
 そうして現実の「地方」から離陸する東京の姿を、『君の名は。』は浮き彫りにする。
 出会いを探すために地方という外部を必要としてきた新海的セカイ系のドラマは、この東京を受け入れ賞賛することで、終わりを迎えるのである。

■メタとしての「君の名は。」

 こうした結末から『君の名は。』をみなおすとき、実は東京の巨大化とその肯定こそ物語の主題であるかのように浮かび上がってくる。
 物語をあくまで散文的に見直せば、『君の名は。』は、故郷のない男と、故郷を失った女が、東京で故郷の幻想と特別な異性を妄想する話といえるのかもしれない。
 退屈な日常の代償であるかのように、失われた美しい「地方」が妄想され、それに共感できる異性が探される。
 物語の背後にこうした散文的「現実」が解釈可能とすれば、『君の名は。』には、近頃さかんな地方賛美的なアニメとの一種の連続性が読み取れる。

 大洗を舞台とした『ガールズ&パンツァー』、『君の名は。』と同じ岐阜を舞台にする『氷菓』など、近年、美しい地方を背景とした「ご当地」アニメが人気である。
  これらのご当地アニメは、地方を大都市の理想にかない、それゆえ「消費」可能な商品に仕立てるが、『君の名は。』はそうした地方の「夢」を内部に組み込む。
 すでにない「糸守」を美しく夢見る二人が、その夢を手がかりに、運命の相手と巡り合う。
 ご当地アニメのメタ的な構造を、『君の名は。』は入れ込んでいる。

 この意味で『君の名は。』は、巨大化する大都市が消費可能なものとして地方を再編し、自分の内部に取り込む一つの形式として人気を集めたとみることができる。

■屈折や鬱屈を忘れることへの不満

 もちろんメディアのなかで地方が消費されるのは、これが初めてではない。
 ご当地の民謡が数多く作られた1920年代の新民謡運動、また1970年に国鉄が始めたディスカバー・ジャパンブームなど、地方に目を向け、消費する流行を近代日本はくりかえしてきた。
   後世の歴史家からみれば、2010年代の「ご当地」アニメの流行や、さらに『君の名は。』のヒットも、そのひとつとみえるかもしれない。

 ただしそうして地方が消費され続けてきた一方で、それと並行して戦後のアニメやマンガが、地方の軽薄な理想化に一定の留保を付け加えてきたことも無視してはならない。
 地方を賛美するだけではなく、それへの陰鬱な思いやアンビバレンツな感情を描くこと。
 たとえば少女漫画に地方社会を持ち込んだ記念碑的な作品として、紡木たくの『瞬きもせず』(1987-1990)が思い出される。
 山口を舞台にしたその物語では、「何もない場所」としての地方に対する高校生の鬱屈がよく描かれていた。
 またはより最近の岐阜の田舎を舞台とした『ひぐらしのなく頃に』(2002-2006(ゲーム))では、当初理想的な田舎として描かれる村が、実は血みどろの争いに引き裂かれた場所であることが分かる。
 「残虐な地方」そのものが消費のために誇張された像ではあるが、単純に地方を賛美することへの反省がそこに込められていたことも否定できない。

 『君の名は。』が消し去っているのは、こうした戦後サブ・カルチャーが積み上げてきた理想化された地方に対する反省なのではないか。
 少女漫画からセカイ系へと続く「居場所」探しの逡巡を「終わらせる」ことに並行して、『君の名は。』は、ご当地アニメ同様、戦後サブ・カルチャーが積み重ねてきた地方への鬱屈や屈折をきれいに漂白する。

 その意味で私が不満を持つのは、充分によくできたといえる『君の名は。』という作品そのものに対してではない。
 不満があるのは、無邪気にその作品を楽しむことによって、戦後のサブ・カルチャーが地方に対して積み重ねてきた反省や屈折の歴史を忘れ、それで良しとしているこの社会に対してなのである。

 何か劣等感の塊のような雰囲気が漂っている。
 これはアニメであってファンタジーなのである。
 それがたまたまヒットしたにすぎない。
 それを妬んでファンタジーの世界に現実を持ち込んで糾弾してもしかたあるまい。
 どうもいただけない。
 この人、病んでいるのではないだろうか?



無料ホームシアター http://mhometheater.com/2016/09/anime/62353.html
君の名は。
http://kissanime.ru/Anime/Kimi-no-Na-wa/Movie-720p?id=134020




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