『
BBC News 2016年9月30日
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-37503259
アニメ映画『君の名は。』が記録的ヒットに
人気の背景を探る

●『君の名は。』は85カ国・地域で公開される予定
なぜ成功を収めたのか。
人気の背景を探った。
■1):体が入れ替わるという幻想的な設定
この映画は、10代の男女の体が入れ替わるという話を中心に展開する。
小説を原作とし、日本の田舎町に住む女子高校生、三葉(みつは)と東京の男子高校生、瀧(たき)の出会いを描く。
三葉は自分が若い男の体になってしまったのを夢の中のことだと思い、一方の瀧は田舎の女子生徒として周囲の世界を見る。
映画は体の入れ替わりと、タイムトラベルや破壊と死をもたらす彗星をめぐる2人の経験を描写している。
■2)日本の昔話の男女取り換えがインスピレーションに
映画を監督した新海誠氏は、12世紀(平安時代)の昔話「とりかへばや物語」からインスピレーションを得たとされる。
とりかへばや物語では、対照的な性格の双子の男女が、男の子が女の子として、女の子が男の子としてそれぞれ育てられる。
現代日本の映画やテレビドラマでも、同様のテーマを扱った作品が存在する。
1982年公開の『転校生』は、神社の階段を転げ落ちた10代の男女の体が入れ替わるし、2007年のテレビドラマ「パパとムスメの7日間」では、父と娘の体が入れ替わる。
■3)夢見がちな思春期のメランコリー
映画は、大人への成長や思春期、複雑な世界の中で自らのアイデンティティーを確立する苦悩、といった普遍的なテーマを扱っている。

●夢と現実の境界線も新海監督の想像力を刺激した
三葉と瀧は、お互いの体が入れ替わった状態で夢から目覚め、現実と夢の境界線が度々あやふやになる。
監督の新海氏は、この部分は古今和歌集の有名な小野小町の和歌から影響を受けていると語っている。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
「彼のことを考えながら眠りに落ちたから彼の夢を見たのだろうか。
夢と知っていれば目覚めなかったのに」
という意味だ。
新海監督は、夢から目覚めたばかりのぼんやりした物悲しい瞬間の感覚を映画の中で表現しようとしているようだ。
■4)日本を変えた東日本大震災の記憶
映画には、2011年3月11日に日本を襲った過去最大の地震、東日本大震災の経験も反映されている。
震災では約1万6000人の命が奪われた。
3・11(サンテンイチイチ)と広く呼ばれるこの震災について、新海監督は週刊ダイヤモンドとのインタビューで、彼自身だけでなく日本社会を変える経験だったと話している。

●東日本大震災では約1万6000人が命を失った
映画でも自然災害の脅威が描かれている。
新海監督は、「あすは我が身かもしれない」という、自らも含め多くの人が感じていることが映画の根底にあると語った。
映画の中で登場人物の瀧が、東京で同じようなことがいつ起きてもおかしくない、と語る場面がある。
ブロガーの吉永龍樹さんは映画について、
「震災のショックを受け止めてあの規模の作品に消化するのに、およそ5年かかるということなのかもな」
とツイッターに投稿した。
■5)「聖地巡礼」
『君の名は。』の映像の美しさも話題になっている。
実在する場所をモデルにした場面も多い。
あるツイッターユーザーは、ストーリーや演出、音楽なども良かったが、映像の美しさに一番感動した、とコメントした。
ほかのツイッターユーザーたちは、モデルになった場所の写真を投稿している。
ファンたちは長野県内の新海監督の地元や岐阜県、さらには都内にある「ロケーション」も訪れている。


●映画の1シーン
映画は海外の関心も集めている。
カナダのアニメファン、イスマエル・ラモスさんはBBCの取材に対し、
「映画の細かい描写一つひとつが非常によく考え抜かれていて、それぞれがとても精密かつ情熱的に作られている」
と語った。
「美術と音楽、物語が完璧なバランスになっている」。
■6)日本のアニメ界の主流となる新世代か
映画がこれほどまで成功したのには、若い世代やアニメファンを超えた、幅広い層の支持を得たことがある。
そのため、新海監督は次の宮崎駿だと称賛する声も一部に出ている。
「宮崎駿」はアニメの代名詞としてほぼ通用するほどで、日本のアニメ作品のファン層を海外にも広げた立役者として知られる。

●日本では8月26日に公開された
宮崎監督がスタジオジブリで制作した作品には、アカデミー賞を受賞した人気作「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」、「ハウルの動く城」が含まれ、これらの作品は全て、興行収入が100億円を超えている。
あるツイッターユーザーは、「新海監督は『君の名は。』で、宮崎監督に近づいた」とコメントした。

●『千と千尋の神隠し』は2003年にアカデミー長編アニメ映画賞を受賞している
少し違う意見を持つ人もいる。
前出のラモスさんは、「宮崎監督と新海監督のスタイルにははっきりした違いがある。両方とも非常に力強いスタイルだが」と語った。
「2人に共通するのは、観客に旅をさせ、経験をさせる能力だ。
アーティストであれば誰もが究極的に目指すところだろう」
「模倣は最大の賛辞」という言葉が正しいと考える読者には、
『君の名は。』の予告編を短編ホラーに作り替えたファンもすでにいる
ことをお伝えしておこう。
岡ゆづは/イベット・タン
(英語記事 Why the story of body-swapping teenagers has gripped Japan)
提供元:http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-37503259
』
人民網日本語版配信日時:2016年10月1日(土) 2時10分
http://www.recordchina.co.jp/a151808.html
大ヒット映画「君の名は。」の中国上陸決定!
年内公開へ―中国メディア

日本で数々の興行収入記録を塗り替えている長編アニメーション映画「君の名は。」の中国公開へ向けて、新たな進展が見られた。
29日、日本の配給会社・東宝が、中国の提携先である光線影業とその傘下の彩条屋影業と共同で、同作品の中国公開へ向けて手続きを進めていることを発表した。
中国のファンは、年内にも映画館でこの傑作アニメを見ることができる見込みだ。
新海誠監督の力作となった「君の名は。」について、日本メディアは「新海誠監督の最高傑作」と評価し、興行収入は早い時期に100億円を突破した。
日本のアニメーションでは宮崎駿氏に続き、興行収入100億円突破を達成した2人目のアニメ映画監督となった。
日本での興行収入は現在、111億円に達しており、アニメーション映画の興行収入歴代6位に付けている。
日本で同作品を見た人や業界関係者の評価は非常に高く、日本のネットユーザーからは「とても不思議な魔力がある」との声も上がっている。
中国でも既に大きな話題となっており、中国公開を期待する声は日に日に高まっている。
これまでにも中国公開のニュースはあったものの、噂の域を出ないものだった。
しかし、映画評論サイトの時光網が微博(ウェイボー)公式アカウントで29日、「光線影業が中国公開を認めた」とし、今後外国映画の審査を経て、年内にも公開される見込みであることを明らかにした。
(提供/人民網日本語版・編集KN)
』
『
現代ビジネス 2016.10.01 貞包 英之山形大学准教授
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49807
『君の名は。』が、感動のウラで消し去ってしまったもの
無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問
■大ヒットの理由――交差する東京と地方
新海誠の映画『君の名は。』が、興行収入110億円を超える大ヒットを続けている。
東京に住む高校生の男の子と、地方に住む同じく高校生の女の子が寝ている間に入れ替わる「スコシ・フシギ」なかたちで出会い、互いの身体で世界を経験していくうちに、次第に運命の人として受け入れていく。
ヒットした要因のひとつには、そうした東京と地方の異なる若者の生活を、メリハリよく交差させ描いていたことがあるだろう。
戦後ヒットした『君の名は』は、佐渡、東京、北海道を股にかけた一種のご当地映画としてあったが、今回の『君の名は。』も、都市と地方の生活をよく描く。
主人公の一人の男子高校生は新宿・代々木・千駄ヶ谷を中心とする東京で学校とバイトを中心とした都会生活を送り、もう一方の女子高生は岐阜県飛騨のどこかをモデルとした「糸守」という村で実家の神社を守りながら暮らしているのである。
ただし気になったのは、2つの場での生活の描き方にリアリティの差が感じられたことである。
東京の街が、(いつもの新海誠の作品でのように)総武線沿線を中心に精緻に実在感をもって描かれていたのに対し、「糸守」は必ずしもそうはいえない。
もちろん「糸守」の風景も綿密に取材され、部分部分は実在のモデルをもつのだろう。
だが、それらが都合よく「編集」されることで、少なくとも、「地方都市」に暮らしたことのある者にとって「糸守」が、実在感の薄い街になっていることである。
「地方都市」に暮らす人々は、イオンに赴き、ユニクロの服を着て、TSUTAYAに通う。
より山中のいわゆる中山間地域なら、そうした場所はあるかもしれない。
しかし過疎化が進む村には、あれほどの子どもや若者はおらず、物語を支えるような青春群像はそもそも成立しにくい。
■地方を救うという「語り」
つまり「糸守」は、郊外や高齢化の風景を周到に排除した、いうなれば理想郷としてある。
虚構であることがたんに問題なわけではない。
自然やスピリチュアルなものなど、東京にないものを寄せ集め出来たいわば都合の良い反転像として、それはあるのではないか。
そうして都会のまなざしによってつくられた負の鏡像としてあるから、「糸守」は容赦なく破壊されるようにもみえる。
ネタバレになるが、物語のなかで、彗星が落ち、「糸守」は壊滅する。
歪んでいるかもしれないが、筆者は『君の名は。』をみながら、「並行世界」のなかで東京に同様に彗星が落ち壊滅することを期待していた。
新海誠の作品のなかでくりかえし描かれてきた、あの滴るような東京の風景が一瞬で四散する「シン・ゴジラ」的スペクタクルの快楽。
何度も繰り返される誰の視線か分からない上空からの俯瞰のショットも、不穏な空気を醸しだしていた。
だが結局、東京には彗星は飛来しない。その代わり、ある意味、東京の身代わりとして「糸守」が破壊されたのである。
それだけではない。紆余曲折を経ながら、実は「糸守」に住む人びとは救われるが、だからこそいっそう都会ではなく地方だけが壊滅し、東京が無償のままそれを「救う」という構図が目立つ。
3.11や熊本大震災、または「地方創生」のブームのなかで、地方は大都市によって救われるべき場所として、「食傷」気味になるほど語られてきた。
問題は、そこで「救われる」のが、あくまで都会のまなざしによって「編集」された架空の「地方」だということである。
多くの人がなお生きるショッピングモールやユニクロやTSUTAYAからなる地方の現実は無視される。
『君の名は。』は、たしかに感動的な物語である。
しかしその感動が、2010年代にメディアや政治的ドラマのなかでくりかえされてきた大都市が地方を救うという「語り」のレールを走っていることを忘れてはならない。
その「語り」は、地方を「救う」べき対象として都合良く立ち上げるとともに、カネや情報の大量投下を招くことで、地方を東京に従属させる現実の構図をますます強めてきた。
『君の名は。』に対する感動は、大都市優位のそうした構図を疑わない、一種の傲慢な思い上がりとおそらく結びついているのである。
■「誰か」を探す歴史
ただし上から目線だけで、「救い」は実行されるわけではない。
地方が「救われる」のは、自分を承認する何かに出会う機会として、むしろ切実に望まれているからではないか。
この意味で、「地方創生」ブームや「絆」ブームには、誰かを「救う」ことで自分の存在意義を確認しようとする、東京を中心とした大都市の人々の不安をみるべきなのかもしれない。
それを確認する上で、少し衒学的になるが、『君の名は。』のサブ・カルチャー的位置を簡単にみておこう。
藤本由香里はその著書『私の居場所はどこにあるの?』のなかで、戦後の少女漫画は、「居場所」をみつけることを主要なテーマとしてきたという。
居場所とは、自分がいても良いことを承認してくれる「誰か」がいる場所のことを意味しよう。
「誰か」は、家族から友人、そして異性へと変わっていくが、その「誰か」に受け入れられる物語を読むことで、少女たち(と少女漫画を読む他の人びと)はうまくいかない家族生活や学校生活をやり過ごしてきたのである。
それをひとつには前提としながら、90年代後半には、今度は主に男性向けのマンガやアニメで、出会いと承認をモチーフにした作品が流行り始める。
後にセカイ系と呼ばれていく『エヴァンゲリオン』(1995-)や『イリヤの空、UFOの夏』(2001-2003)を代表に、主人公たちが特別の異性に受け入れられることが大切なテーマとなっていく。
ただし異なるのは、セカイ系では出会いそれ自身は、充分に意味あるものとされていないことである。
男女の出会いは、なぜかセカイの破局を救う特別の意味を担うとされることで、あくまで重要なものとみなされる。
そうして男女の出会いが個人だけではなくセカイの運命を左右する、「公私」が重ね合わされた「神話」的な物語を、90年代後半以降、マンガやアニメはくりかえし語ってきた。
新海誠はそのセカイ系のブームなかで育ち、生き残った作家といえる。
出世作『ほしのこえ』(2002)は、地球を救うために戦う少女と、その少女との感情的つながりを時空を超えて信じる少年の姿を描くことで、今思えば、セカイ系をわずか25分のなかに煮詰めた作品としてあった。
また後の『雲のむこう、約束の場所』(2004)や『秒速5センチメートル』(2007)でも、出会いをセカイの命運と同じくらいの重さで信じる男女が登場する。
求められるのは、男女の互いの承認だが、離れ離れの「時間」や「空間」がそれを妨げ、個人やセカイの運命を左右する。
そうした障害を乗り越えようとする(がなかなかうまくいかない)「遠距離恋愛」を描くことに、新海誠は執着してきたのである。
■地方への憧憬
『君の名は。』は、こうしたセカイ系の流れを押し進めた作品とまずはいえる。
ここで「遠距離恋愛」の障害になるのは、田舎に住む女が三年前の時空を生きていたという時間的パラドックスと、より単純には東京と「糸守」の空間的距離である。
これまでも新海誠は東京と地方の隔たりを、主人公たちを分ける大きな障害としてしばしば描いてきた。
主人公たちは青森と東京(『雲のむこう、約束の場所』)、栃木と東京と鹿児島(『秒速5センチメートル』)、東京と四国(『言の葉の森』)に引き裂かれ、少なくとも一度は関係を断つ。
しかし東京と地方の距離は、思いを純粋なものへと高める装置にもなる。離れているからこそ、互いの心が試されるのであり、実際、新海誠の作品が描く特徴的な「空」の風景が象徴するように、主人公たちは東京と地方と離れているからこそ、どこかで通じ合っているという(しばしば一人よがりの)思いを募らせる。
『君の名は。』でも、その点は同じである。
東京や地方という離れた場所に、自分と心が通じ合う者がいると信じようとするのは、意地の悪い見方をすれば、現実にはそうした人がいないと諦めているからともいえよう。
身近に住む人々はすぐに期待を裏切る。
だからこそすぐには逢えない、自分の住む街の「外部」に、運命の人が憧憬されるのである。
■東京の膨張と「居場所」の内部化
新海誠の作品では、こうしてしばしば自分の街に「居場所」を見出せない人がそれを遠くの街に求める。
ただし『君の名は。』は、それだけでは終わらない。
大きな違いは、ここでの遠距離恋愛がハッピーエンドで終わることである。
これまでの作品では、運命の人であり続けるために、現実の出会いはしばしば不発に終わった。
それに対して『君の名は。』では、物語のラストで、記憶を失っているにもかかわらず、二人は行き違う総武線の窓から互いをみつけ、最後には出会うのである。
こうしたありえないほどの偶然が、それなりに納得がいくものに仕上がっているのは、ひとつには、二人の出会いが「大量死」を背景にしているからといえよう。
やり直せないはずの時間を巻き戻し、別れた人にもう一度会うこと。
それはとくに2011年の震災以降、この社会の多くの人びとが痛切に抱いてきた思いといえる。
そうした私たちの願いを追い風に、大破局を生き延び、二人は出会う。
しかしそれ以上にここで注目されるのは、この出会いが実現されるのが、あくまで東京の内部ということである。
物語のラストで「誰かを探している」という思いを二人は抱えつつも、「誰か」を東京以外に探しに行こうとする素振りはみせない。
地方出身の女は帰る場所を失い東京でOL生活を送っているようであり、東京に暮らす男も他の場所に出ることなくそのまま就職している。
しかし結果としてみればそれは成功し、二人は総武線という極めてローカルな世界で最後に出会う。
都市の外部に「誰か」を探すというロマン的幻想から覚めたものと評価できるかもしれないが、逆にいえば自分の身近で運命の人に出会えるというより深い夢を眠っているものともいえる。
自分のすべてを肯定してくれる他者が、すぐ近くにいるという幻想。
それは他者を入れ替わりによって身体的に経験したことから来ているのかもしれないが、だからこそそれは距離や時間の隔たりのなかで他者を必死に求める、新海誠自身が追求してきた屈折と鬱屈のセカイ系の物語が「死んだ」ひとつの瞬間でもある。
その上で重要になるのは、こうした「死」が東京という巨大都市の肯定によって支えられていることである。
現在、東京は外部を失ったまま膨張している。
モノや仕事や情報を巨大に集め続けるなかで、主人公の女もいつのまにか引き寄せられているように、東京は内部に「地方」さえ孕む。
そうして現実の「地方」から離陸する東京の姿を、『君の名は。』は浮き彫りにする。
出会いを探すために地方という外部を必要としてきた新海的セカイ系のドラマは、この東京を受け入れ賞賛することで、終わりを迎えるのである。
■メタとしての「君の名は。」
こうした結末から『君の名は。』をみなおすとき、実は東京の巨大化とその肯定こそ物語の主題であるかのように浮かび上がってくる。
物語をあくまで散文的に見直せば、『君の名は。』は、故郷のない男と、故郷を失った女が、東京で故郷の幻想と特別な異性を妄想する話といえるのかもしれない。
退屈な日常の代償であるかのように、失われた美しい「地方」が妄想され、それに共感できる異性が探される。
物語の背後にこうした散文的「現実」が解釈可能とすれば、『君の名は。』には、近頃さかんな地方賛美的なアニメとの一種の連続性が読み取れる。
大洗を舞台とした『ガールズ&パンツァー』、『君の名は。』と同じ岐阜を舞台にする『氷菓』など、近年、美しい地方を背景とした「ご当地」アニメが人気である。
これらのご当地アニメは、地方を大都市の理想にかない、それゆえ「消費」可能な商品に仕立てるが、『君の名は。』はそうした地方の「夢」を内部に組み込む。
すでにない「糸守」を美しく夢見る二人が、その夢を手がかりに、運命の相手と巡り合う。
ご当地アニメのメタ的な構造を、『君の名は。』は入れ込んでいる。
この意味で『君の名は。』は、巨大化する大都市が消費可能なものとして地方を再編し、自分の内部に取り込む一つの形式として人気を集めたとみることができる。
■屈折や鬱屈を忘れることへの不満
もちろんメディアのなかで地方が消費されるのは、これが初めてではない。
ご当地の民謡が数多く作られた1920年代の新民謡運動、また1970年に国鉄が始めたディスカバー・ジャパンブームなど、地方に目を向け、消費する流行を近代日本はくりかえしてきた。
後世の歴史家からみれば、2010年代の「ご当地」アニメの流行や、さらに『君の名は。』のヒットも、そのひとつとみえるかもしれない。
ただしそうして地方が消費され続けてきた一方で、それと並行して戦後のアニメやマンガが、地方の軽薄な理想化に一定の留保を付け加えてきたことも無視してはならない。
地方を賛美するだけではなく、それへの陰鬱な思いやアンビバレンツな感情を描くこと。
たとえば少女漫画に地方社会を持ち込んだ記念碑的な作品として、紡木たくの『瞬きもせず』(1987-1990)が思い出される。
山口を舞台にしたその物語では、「何もない場所」としての地方に対する高校生の鬱屈がよく描かれていた。
またはより最近の岐阜の田舎を舞台とした『ひぐらしのなく頃に』(2002-2006(ゲーム))では、当初理想的な田舎として描かれる村が、実は血みどろの争いに引き裂かれた場所であることが分かる。
「残虐な地方」そのものが消費のために誇張された像ではあるが、単純に地方を賛美することへの反省がそこに込められていたことも否定できない。
『君の名は。』が消し去っているのは、こうした戦後サブ・カルチャーが積み上げてきた理想化された地方に対する反省なのではないか。
少女漫画からセカイ系へと続く「居場所」探しの逡巡を「終わらせる」ことに並行して、『君の名は。』は、ご当地アニメ同様、戦後サブ・カルチャーが積み重ねてきた地方への鬱屈や屈折をきれいに漂白する。
その意味で私が不満を持つのは、充分によくできたといえる『君の名は。』という作品そのものに対してではない。
不満があるのは、無邪気にその作品を楽しむことによって、戦後のサブ・カルチャーが地方に対して積み重ねてきた反省や屈折の歴史を忘れ、それで良しとしているこの社会に対してなのである。
』
何か劣等感の塊のような雰囲気が漂っている。
これはアニメであってファンタジーなのである。
それがたまたまヒットしたにすぎない。
それを妬んでファンタジーの世界に現実を持ち込んで糾弾してもしかたあるまい。
どうもいただけない。
この人、病んでいるのではないだろうか?
この人、病んでいるのではないだろうか?
『
無料ホームシアター http://mhometheater.com/2016/09/anime/62353.html
君の名は。
http://kissanime.ru/Anime/Kimi-no-Na-wa/Movie-720p?id=134020
』
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